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旭川市民劇場
旭川市民劇場とは2012年上演作品・過去の上演作品入会のご案内事務局
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第回 [PR](2017.12.18)


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第4回 柴田義之さんインタビュー(前編)(2012.05.26)




2012年4月例会「落語芝居 芝浜」劇団1980の柴田義之さんへのインタビュー。

旭川市民劇場初登場!劇団1980

───本日はよろしくお願いします。このインタビューは旭川市民劇場のホームページに掲載します。

 劇団も、6月にホームページを新しくしようと思ってですね。今後「はちまる風雲録」というのをまとめたいなと。
 劇団が出来る以前から始まって、どういうふうに劇団が出来ていったのか、一本一本の作品をどういうふうに作っていったか、出演者がどういうふうだったか、というようなこと…また、どういう人がやめていったかとか、そういう人たちの名前も、書いて残して行かないと。ある意味では「鎮魂」というか…、記録に残して行かないといけないんじゃないかと。

 [劇団1980オフィシャルホームページ]
 http://gekidan1980.com/
───まずは、劇団1980についてお伺いしたいと思います。劇団1980は、役者さんがみなさん横浜放送映画専門学院(現日本映画大学)の出身でいらっしゃいますね。
同じ学校の卒業生が集まって作る劇団というのは、めずらしいと思うのですが。

 横浜放送映画専門学院は、今村昌平さんがお作りになった学校で、映画を撮ったり、芝居をやったり…、今村さんの「壮大な遊び」というか、そんな学校でした。
 1930年代に日活とか松竹とか東宝とかで何千人に一人しか通らないような助監督試験を受けた超エリートの人たちが、40年代になって映画が斜陽になって、ひまをこいて、そこで今村さんが学校を作るということで先生になったわけです。
 それで、ここ、無試験の学校だったんですね。だから、もう、試験があるってだけでほかの学校には通らないようなやつもいるんですけど、そういうやつも来て、かろうじて字が読めるような感じの人もいたりとかして。
大体、男は、安い名画座の片隅にずーっといるような、映画に憧れてるようなやつ。女の子は、大体地方から出て来る「自分は感受性が強い」って勘違いしているような(笑い)。冗談ですけど(笑い)。それで、まあ、そういう人たちが集まって、「映画館の片隅」と女の子たちを擁して、学校が始まったわけです。その中に演劇科というのがあって、そこで藤田傳が担任をしていた。
───担任!主宰の藤田傳さんは、もともと映画学校の先生だったんですか。

 藤田傳は二期生から担任になったんです。だから、僕らは藤田の最初の教え子なんですよ。
 だから、その関係なんですよね。それはずっーと、未だに。
 だからそこの卒業生、そこの弟子ばっかりが、ずっと集まって、劇団をやっています。
 藤田はあのとき40代の後半で、劇団を作るってのはものすごい労力がいる大変なことだし、それで30人くらいの若いやつを束ねて、年に何本も脚本を書いて、その作品をやっていくわけですからね。30人の若者の人生を背負って、なおかつ、原稿料も演出料も1円ももらえない(笑い)。そういう中で劇団をやっていました。

 僕ら二期生が卒業した年にですね、「ええじゃないか」っていう芝居をやったんですね。俳優座劇場で、卒業公演。
 僕らだけだと面白くないんで、藤田弓子さんに出てもらったりとか、もうお亡くなりになった浜村純さんていう個性的な俳優さんがいらして、そういういろんなプロの俳優さんと卒業生とが一緒にやるっていう企画の公演を、俳優座劇場で一週間やったんです。普通だったら一回とか二回の公演なんですが、それを一週間、十回公演くらいやったんですよ。そしたら、すごい黒字になった。当日券もいっぱい入ったりして。
 そのときに、もうすでに三月の中頃から終わり頃だったんで、養成所なんかの募集も、もうすでに終わってた。
 それで藤田が「じゃあ、みんな俺が面倒見るから、どこにも行かずに、まあ、いろよ」ってことになって。

 僕らの年は、藤田がよその劇団に向けて書いたものを上演するときに出演さしてもらって、その二年後、四期生が卒業したとき、80年に、二期生から四期生で一緒に劇団を作ったんですね。
 そのとき、新宿にモリエールっていう元キャバレーの劇場があって、そこがキャバレーをやってると毎月100万の赤字になるっていうんで閉店して、ここ何かに使えないか?と相談を受けて、それで、藤田と何人かの人間が「ここを劇場にしようぜ」と云って。僕らは、そこの座付き劇団として、劇場付きの劇団として生まれたんですよ。
 今みたいにキレイになる前、建て替える前は、ダンスフロアがあって、5階と6階が吹き抜けで、バンドの人たちが入るところがあって…
───映画のワンシーンに出てくるような…

 そうなんですよ。まさにあの、日活映画に出てくるような。
 それをこう、劇場だから黒くしないといけないから黒く色塗って、あとバトン(舞台上に照明や幕を吊すための長い棒)を自分たちでつけたりとか、照明機材を買って来たりとか、幕を張ったりとかして。で、やってみたら、意外と面白い空間だというんで、夢の遊眠社だとか、劇団3◯◯とか、スーパーエキセントリックシアターとか、そういうところがその劇場でロングランで一ヶ月とか公演をやるようになったんです。
 80年は、映画「ええじゃないか」を今村さんが撮るということで、僕らも手伝いに行って、全然ひまがなかったんで、81年にそこで旗揚げ公演をやったんです。それと、もうひとつは「お金を貯めよう」っていうことで。みんなが、当時5万円ずつ、お金を、12月の29日に持って来よう、っつうんで持って来て。
 だから今でも、うちの劇団に入るときは、入団金として5万円払うっていうことになってる。でも、あの頃は大体飲み屋行っても1000円かかんないぐらいの時代だったからね、今と昔じゃ価値が違うけど(笑い)。
───劇団が結成された1980年というのは、演劇の世界ではどんな時代だったのでしょう?

 当時はですね、70年代の中ぐらいから80年にかけては、東京はもう小劇場ブームで、小さい劇団がいっぱい出来て、「ぴあ」の調べで2000ぐらいあるとも云われてた時代で、とにかくもう、小さい劇団が出来てはつぶれ、出来てはつぶれ、みたいな時代だったんですね。大体みんな、仲間が集まって作るだけで、そんなにいい演出家とか作家とかが劇団にいるわけじゃないですから、当然観に来る人もいないし、つまらないし、芯になるやつもいない。
 だから結局、もう、ケンカ別れみたいになって、離れたりしたんだけど。
 僕らの劇団も「すぐつぶれるだろうな」と思って、それで…、あんまり考えずにですね、出来た年の名前を劇団名にしたっつう…。そのあと32年も続くんであれば、もっと深みのあるですね(笑い)、劇団名にすればよかったな、と。
 僕なんか、自分の年を云って歩いているみたいなもんで。
 もうちょっと何かね、人間的…、文学的な(笑い)、そういう名前にすればよかったなと思って。
───学生がみんなで集まってワーワーと劇団を作って…というのはよく聞きますが、先生が筆頭に立って、というのは本当にめずらしいですね。

 だから、劇団は…、友達じゃないし、僕は「劇団は親戚みたいなもんだ」って云ってね、なるべくみんな会わないようにして、法事のときだけ集まればいいんじゃないかっていうような気でいるんですけどね。公演のときにパッと集まって、やって、またパッと散って。最近はこうして地方に呼ばれることが多いんで、いっつもしょっちゅう一緒にいるんで、もううっとうしくてしょうがない(笑い)。もっと遠くに住んでたのになーって。

「落語芝居」面白さと難しさ

───今回の「落語芝居」は、劇団1980の中では比較的新しい演目ですね。

 いちばん最初は2004年ですね。今までに、11本の噺を芝居仕立てにしました。
 いちばん最初は「落語芝居 子別れ」、2007年に「落語芝居 芝浜」をやって、次に「藪入り」をやったんですけど、今回はその11本の中からいいのを選んで四本立てにしたんです。「おかみさん、風呂敷が震えてますよ」なんて(落語「風呂敷」のサゲ)、ほかの噺の要素をちょっとずつ集めて入れたりもして。

 最初に、この「落語芝居」というのをやったのは、俳優の訓練・若手の育成のため。
 どうしても「声が聞こえない」っていう話がよくあって、それもまあ色んな原因があるんですけど、その中で、俳優達の訓練が非常に出来てないっていうことがあった。じゃあ、声が聞こえるように、となったら、ただ大きい声を出せばいいのか?というと、それはただうるさいだけのものですから、「意味がはっきり云える」ということが大事なんです。
 そうすると、落語っていうのは、もう200年も300年もやってる芸能なわけですから、その中でもとびっきり面白いやつだけを集めてやるってことになれば、意味さえきっちり届けば、客は笑うわけです。ウケるわけですよね。ウケないとしたら、そいつ(役者)の技量がない、ということになる。

 今回も、基本的には、色んな噺家さんの噺があるけど、速記本(噺を記録したもの)というのがあるんですが、それを元にして、なるべく一言一句変えないようにして。で、登場人物が二人いれば、二人の俳優がやる、三人いれば三人でやる、というようにやる、と。新しい台詞を入れたものも、上手くつくっている劇団もありますけど、どうしてもなにか入れると、こう、そこだけ言葉が浮いちゃうところがあるので「よし、そのままでやってみよう」と。

 あと、一番苦労したのは、やっぱり…、落語っていうのはリアクションがないんですよね。
 やってるだけ。聞いているところがないんですよ。噺家さんは常に話をしているから、「聞いている人」がいない。
 だから、「リアクションができる」ってことなんですね。新たに「聞き手がどう演技をするか」という演出が必要になるのだけれど、これがヘタすると芝居を壊しちゃう。
 ここが、やっぱり「落語芝居」のミソなんですよね。要するに、ただ噺の通りやればいい、というんではない。
 昔はそういうやり方もしたんです。登場人物がいたら、歩くのも、噺家さんがやるのと同じように座ったまんまで、自分の喋るシーンになると、こう、引き枠(下に車輪がついていて人を乗せたまま移動させることのできる舞台装置)でツーッと出てきて喋って、横向かずに正面向いて、喋るシーンが終わったらひっこむ、と。そういうふうにもやったんです、最初は。
───台詞を守って…という中で、「猫の皿」はとても大胆な改作をなさっていますね。

 やっぱり落語はどうしても、男の人しか出て来ないのが多いから。男性社会だからね。
 女優に出番を作るということで役を女性にして、そうすると、江戸時代の古道具屋で女性同士が猫の皿を買いあう…、となると、なかなかいないから、現代のセレブなマダムにするといいだろう、という。
───「宿屋の仇討ち」はなんといってもあの回り舞台が効いています。「襖一枚隔てて」というのが、みごとに再現されていて、また、三人が盛り上がったり沈んだりする流れや理由がしっかり見える。

 ね。こっちで怒ってて、こっちでドンチャン騒いで。
 あれは面白いですよね、舞台美術の勝利ですよ。また、セットもにぎやかしくていいでしょう。
 芝浜もね、いい話ですよね。僕らは、三代目の桂三木助(1902-1961)の速記本を元にして上演しているんです。
───「芝の浜で四十二両を拾って…」という大筋は同じですが、噺家さんによって、おふさ(勝五郎の女房)の対応が大きく違いますよね。おかみさん一人の裁量で三年間隠し通す、というのが多いようですが、大家さんを間に入れているものもあったり…

 三木助さんのはね、おかみさんが「大家さんのところに持っていく」。志ん朝師匠はおかみさん一人でやってますね。
───落語芝居の場合は、おかみさんを演じる役者さんによって違って来るのかもしれませんね。

 そうですね。上野(今回おふさを演じた上野裕子さん)という女優は、きついというか、こう、キリッとしている女優だから。だからたとえば、猫の皿で、皿を売るほうの女性を演じた室井(室井美香さん)が、2007年の若手公演のときにはおふさを演ったんですね。そうすると、ほんわかとして。いいんです、それぞれやっぱ。
 噺家によって噺が違うように、落語芝居も色々変わると思っています。
───ふつう噺家さんだったら、自分の「芝浜」を一人で完成させなければいけませんが、「劇団1980の『芝浜』」は毎回違うお芝居になりうる。色々な可能性があっていいですね。

 だからね、本当にね、噺家のほうがラクだ!って思うときもあるんですよ(笑い)。全部自分の呼吸で出来るわけですから。だけど、リアクションであるとか、装置の面白さとかっていうと、芝居であるからこそ出来るところもあるし、そこが面白いと思いますね。
 まだ落語は200本も300本もありますからね。なんぼでも作れますよ。
 今は「代書屋」(上方落語の演目のひとつ)とかね、一生懸命稽古してますよ。
───「四本立て」ということで、オムニバスのようなものかなと思っていて、あんなふうに全体にお話をからめて演出されているとは思いませんでした。

 あれはですね、実は僕らも、単発でやる予定でいたんですよ。
 そうしたら、二年前に長野県の高校で上演することになったんです。
 高校生は、とにかくすぐに飽きる。すぐに携帯パカパカしはじめたり、そいつらを集中させるために、ああいうつなぎを入れたほうがいいんじゃないか、と。でね、事前に聞いておいて、3年2組の42番は○○って名前だ、というのを仕入れておいて、舞台から「おい、42番の○○ー!」とか云ってビックリさせたり。そういうところは本編ではいじれないんで、ああいうつなぎのところに挟んで入れたんですよね。
 そしたら、高校生に大ウケだったんで、高校生にウケるなら鑑賞会でもウケる!と思って(笑い)。

 鑑賞会の方っていうのはキャパシティが広い。
 いつも、芝居をやると、アンケートに必ず「ぜんぜん期待してなかった」「もし手売り(公演ごとにチケットを販売する方式)だったら絶対にチケットは買わなかった」「だけど、こうして出会えた」と書いてあるんですよ。

 市民劇場の良さは、そういうところにあるんじゃないかと思うんです。
 自分でチケットを買うと、どんなに冒険しようと思っても、自分のワクを超えるってことはなかなか出来ないじゃないですか。だけど、こうして毎回、色んな芝居に会う。それによって、皆さんと1980とも会えたわけですからね。もし上京しても、きっと観ないでしょう?だから、やっぱりこういう演劇鑑賞グループがどれだけ大事なのか、っていうことは、本当に、つくづく思いますね。
 去年「東京行進曲」でまわったときも、各地でそういう話をしました。こんなふうに出会えた、ある意味では、奇跡みたいなことじゃないですか。僕らのような劇団もそうだし、大きな劇団だって、新しい俳優さんと会えるわけだし、違う作品とも会えるし、本当に意味のある会だと思います。

 で、なおかつ、市民劇場のおんなじ会員なんだから、深く付き合おうと思ったら、付き合えるじゃないですか。
 搬入や搬出を楽しんだりとか、交流会を楽しんだりとか、こういうふうにインタビューを楽しんだりとか、色んな楽しみ方があるので、本当に面白いとこだなーと思いますね。自分の思いで、参加しようと思えば、深く参加出来るし。「お客さん」ではなくてね、この会が「自分たちのものだ」と思って、みんなで一生懸命支えて活動できたらとてもいいと思います。
 演劇を観るという習慣が、だんだんなくなっているから。昔のように、同じ時間を共有するっていうのが、なんかめんどくさいというか、ツラいというか。一回ハマると、このー…、アレ(笑い)になるんですけどね。この喜びを、みんなに知ってもらいたいと思います。貪欲に楽しんでもらいたい。
───旭川市民劇場は去年で40周年だったのですが、今の会員さんには、高校を卒業して働きはじめて労演(旭川市民劇場の前身)の芝居を観はじめた、という方が多いんです。もう間もなくその方たちが定年になるのですが、市民劇場に出会っていなかったら、演劇も観ないし、こうした活動にも参加していなかっただろう、と。

 それはすばらしい人生ですよね、ある意味で。職業もあるけど、それとは別に、演劇を観つづけるっていうのはね。

 北海道では、釧路も岩見沢も、すごい喜んでいましたね。旭川でも今日またすごい喜んでくれて…。このあと苫小牧、江別、それから函館。ずっと付き合って行きたいと思いますね。

 奥様が市民劇場に入っていて、ご主人が退職なさって一緒に観るように…なんて、いいですよね。二ヶ月にいっぺん、こうして、語り合うテーマがあって、ご夫婦で関わり合って。いい会だと思うなあ。自分はたぶん演劇に出会わなかったら、こういう鑑賞会にも出会わなかったと思うけど、僕はすばらしい会だと思いますね。


(後編へつづく)

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