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旭川市民劇場
旭川市民劇場とは2012年上演作品・過去の上演作品入会のご案内事務局
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第6回 辻萬長さんインタビュー(2012.07.30)




2012年6月例会「闇に咲く花」こまつ座 辻萬長さんへのインタビュー。

辻さんとこまつ座
辻萬長さん───今年は井上ひさしさんの生誕77年で、井上ひさし生誕77フェスティバル2012が開催されています。

 僕は八月まで「闇に咲く花」で全国をまわります。旭川に初めて来たのは90年の「人間合格」。正式にこまつ座に入ったのは91年です。
───そのこまつ座で、辻さんだけが専属の俳優ということですが、どのような経緯でそうなったのでしょうか。

 僕がちょうど「人間合格」が終わって、次の「シャンハイムーン」をやるときに、所属していたプロダクションを辞めたんです。僕が一人で電話番もして、自分のスケジュールも組んで、自分のことは自分でやっていた。それを見かねたこまつ座さんから「シャンハイムーン」の途中に、もしよかったらいらっしゃいませんか、と声をかけていただいて、こんないいことはない!と、それで入ったんです。
作品「闇に咲く花」
───「闇に咲く花」では、戦争で家族を亡くして大変な状況でありながら、人々が明るいですよね。境内はいつもにぎやかで、笑い声があって…

 これは井上さんが2008年の稽古が始まる前におっしゃったんだけどね。
 戦後の世の中は闇のように暗いんじゃないか、と皆さん考えると思う。ところが、その時代は戦争でものすごい悲惨な目に遭って、暗い時代を生きて、だけど戦争が終わったということは、これからはよくなるということ。今日より明日、明日より明後日、みんなその頃は、明るい明日に夢を持って、希望を持って生きていた。よくなるよ、よくなるよという思いで生きてたから「ああ、戦争が終わった…」ってふさぎ込むような人間はいなかった。
 よし、もう終わったんだからこれから頑張ろうね、って、とにかく人が明るかった。それを描いてほしい、と。
 「みなさん、こんな悲痛な時だったから、悲しい人間を描こうなんて思っちゃいけません。とにかく明るい、『生きて行こう』っていう、明るい人間を描いてください」ってことが井上さんのメッセージだったんです。

 瞬間的には、絶望すると思う。家も何にもなくなるわけだし、肉親がいなくなるんだから。
 でも、その次に考えることは「こんなことしてたんじゃ生きていけないよ」ということ。そういうふうに考えるように人間は出来ている。それを、井上さんは書いたんだと思うんです。「闇に咲く花」の人物たちもばかに明るいけど、実際、人間そういうときに暗くはならない。人は、何もなくなったら、その時は「ああ、もう駄目だ」と思うんだろうけども、どん底から這い上がるときには明るく生きてられるんじゃないか。もしかしたら、かえって今の人たちよりも前向きに生きていたかもしれない。だから悲壮感はない。
 牛木公麿にしても「ああ、健太郎が生きていてくれりゃなあ」と、どこかで常に思っているんです。それが、瞬間的に出てくる時もある。「あいつが生きていたら」「あいつが生きていたら」と思っているところがあるのだろうけども、そんなことをずっとしていたら、生きていられない。闇もやんなきゃいけない、とにかく食わなきゃいけない。「つらいことがあっても『前に進もう』と思うのが人間だ」というのが、井上さんのお芝居に込めたメッセージだと思います。
───神社が舞台になったというのはどうしてなのでしょうか。

 井上さんが小学生のとき、昭和九年のお生まれだからちょうど戦争の真っ最中、その頃に小松町(現・川西町)っていう山形県のずっと奥のほうの町で、威張ってた神主さんがいて、井上さんは「神主さんがなんでそんなに偉いんだろう?」「どうしてあんなに威張ってるんだろう?」と思った記憶があるそうです。それで大きくなってから「あ、そういうことだったのか」とわかった。神主、国家神道、そこにC級戦犯…
 この芝居にはこのテーマがあるからこれでいいんじゃない?という人じゃないんですよね。
 こういう問題もある、こういうこともある、これもこれもと絡めて作品を作ろうとする。だけど、芝居の長さはある程度決まっているから、その制限の中で、みんながエーッと思うようなものを描かなければ、と思うのが井上さんだから。

 また、C級戦犯っていうのはすごい理不尽でしょう?健太郎だって、虐待も何もしたわけじゃないでしょう。野球をやるよっていって「じゃあタバコ一本ね」「いいよいいよ」ってやりとりがあって、たまたまそのボールが現地の青年に当たっちゃったっていうだけで。
  よく云われるのがね、体が痛いというからお灸をしてやったら、そのあとのC級戦犯の裁判で「あの人は私を火あぶりにした」って証言されて、それで、もう死刑になる。C級戦犯は「人道に対する罪」という名目で、場合によっては通訳もつかない、弁護士もつかない、みたいな状況で裁かれるわけだから、井上さんは、戦争にはそういうひずみがあるんだということを書きたいとおっしゃっていた。

 芝居の中に色んな仕掛けがあって、それが、物語を追って行ってはじめてわかるように細かく絡まって来る。主人公は健太郎だから「健坊」、その健坊が「健忘症」になって、「牛木」という名前だから現地の人に「ウイスキーさん」と呼ばれ、名前を覚えられていて…というふうに。そんなわけだから、やっぱり、台本が完成するのは遅くなるよね(笑)。
 その上で、それを「喜劇」まで持っていかなければいけない人だから。

 ただただ、観た人が泣いて「よかったです」というのではなく、人が、泣きながらそれでも「フフ」って笑っちゃうような芝居にしたい。泣きながら笑っちゃう、笑いながら泣いちゃうというのは、その人がいちばん解放されている時で、お客さんをそういうふうにしたいというのが井上さんだから。だから、涙流しながら笑っているお客さんがいたら、井上さん「もう死んでもいい」と思うでしょうね。そういう願いのもとに、脚本を書いて来た人だから。
戦争責任のありか
───牛木健太郎の台詞で「忘れちゃだめだ。忘れたふりはなおいけない。」とありますが、私たちは、いやなことをつとめて忘れようとしてしまうこともありますね。

 忘れようっていう意識が働くときには、忘れたふりというのも絶対するよね。人間は、生きていれば実際どんどん色んなことを忘れていってしまうし、「忘れる」っていうことがある意味では人間の才能で、生きて行くには必要なことなんだよね。それによって生きられる、というところもある。
 ただ、忘れちゃいけない、ということがいくつかある。絶対に忘れちゃいけないっていう大事なことがある。井上さんの戦争責任の追及では、それは「庶民の戦争責任」。云ってみれば、神主とか一般の人にも責任があったっていうのが、井上さんの戦争責任論なんです。
 では、それは何によって償うことが出来るかと云えば、覚えておくこと。もう二度とこういうことを繰り返してはいけない、ということを自分の中に重石として置いておいて、絶対に捨てないようにしよう、と。「二度と忘れないで、二度と繰り返すのはやめよう」と心に刻んでおくことが、一般の人たちの戦争責任だということです。

 それと並んで「天皇の戦争責任」というのは、なんといっても井上さんにとってはすごい大きなテーマで、「紙屋町さくらホテル」(旭川市民劇場2007年2月上演)はそれを描いた作品でした。
 天皇が「もう戦争をやめよう」と云っていれば、たくさんの優秀な人が生き残った。戦争があったからこそ、プロ野球選手にしても、作家にしても、あの人も死んじゃったこの人も死んじゃった、本当にあの人が生きていればなあ、ということがたくさんあった。家や財産もそうだけど、人材が、人が亡くなっていく。ものすごい才能がなくなっていく。耐え難いことだよね。
 「やめよう」と云えなかった天皇の戦争責任というものをドーンと書いたけれど、だからって周りの人はみんな被害者かと云ったらそうじゃない。責任はみんなにある。
 戦争を美化するわけじゃないんだろうけれども、戦争のかっこよさとか、赤紙が来て戦地にとられていくという悲壮感だとか、そういうことだけで「かわいそうだよね」とやっちゃうと、それはもう違うもの。「何がかわいそうだ、あんたにも責任があるんだよ」という、みんなで責任を取らないと駄目だというのが、井上さんの戦争に対する思いですね。

 新国立劇場というのは、主にこういう現代劇のために国が建てた劇場なんですね。
 その劇場のこけら落としを井上さんに書いてほしい、とお話が来た。
 じゃあ、何を書くか。日本で新劇が初めて上演されたのが築地小劇場だから、それを上手く取り入れて演劇作家とか新劇作家の物語を書けばいいな、と最初は思った。しかし「待てよ」と、そこで井上さんが考えたんです。
 せっかく、国立の、国がやろうとしている劇場に、もっと強いものを入れたいというのがあった。そこで「戦争責任」「天皇の戦争責任」というテーマをぶつけた。これは、非常に画期的というか、すごいことなんだよね。
 もしかしたら「これは困ります」とプロデューサーが云うかもしれない。でも、とにかく、最初は台本がないからね。これがまあ、功を奏したんだけれども、要するに、台本が少しずつ出来ていって、天皇の戦争責任というのが最後に登場する。台本が全て出来上がったのが初日の三日前だから、今から台本を変えるわけにはいかない、初日の幕を開けなきゃいけない。それで、出来た作品は「天皇の戦争責任」。
 だから、井上さんはそこまで計算していたのかどうか知らないけれども、普段から筆が遅い人だから恐らくは計算外だと思うけれども、でも、それも上手く使って、こんなふうな誰も文句が云えない状態にしちゃった。
 これがもし、台本が最初からあったら「ちょっと待ってくれ」となったかもしれないよね。その可能性は無きにしもあらず。そういう状況で井上さんは書いた。

 僕らはみんな現代劇がやりたいと思ってはじめた俳優ばっかりだったから、そこへ「現代劇って、新劇って、芝居って、こんなにいいんですよ」ってことが書かれてる台本をもらった。演劇を、人を讃える讃歌のようなものがあった。それで最後にはどうだ!という大きなテーマがドーンと出てくる。すごい心地よかった。こんなの誰も書けないだろう、やれて幸せだ、って思ったのが第一印象でしたね。
井上作品に描かれる「普遍性」
辻萬長さん───井上ひさしさんの脚本というのは、役者さんにとってどのような存在でしょうか。

 井上さんの、台本が仕上がるのが遅いということのひとつの原因は、最初に膨大な量の資料を読んで、それから書き始めるんです。だから、本当にたくさんの細かなものが凝縮されたのが井上さんの戯曲なんです。
 言葉も、たとえばひとつの形容詞にしても、云い方が10種類あるとしたら、この場合どれがいいだろう?って、言葉を選んで選んで選び抜いて「これだ」って書かれた言葉だから。
 それから、シェイクスピアが好きだったみたいに、韻を踏むだとか。
 カ行ではじまったらカ行の単語を使って一揃え作るとか、そういうところまでやっていらっしゃるから、ほかの人の台詞とちがって、云ったときに……すごい、云った快感があるんですね。云う快感があるんです。
 こまつ座に来た俳優に「一度は井上さんの台詞を云いたかったんですよ」という人がたくさんいるように、井上さんというのは特殊な台詞を書かれる人なんです。それは、美しいということも出来るし、貴重なんです、言葉がね。
 普通はこんなこと誰も云えないだろう、というぐらいのことを俳優が云える。
 そういうことでは、長い台詞もたくさんあるし、なんでこんなことまで云わなきゃいけないんだろうっていう細かい台詞もある。だけど、井上さんの座右の銘で「むずかしいことをやさしく」という一節があって、お客さんにわかってもらうためには必要なんです。そのためには、ものすごい面倒くさいところを通って表現することもあるんだけれども、それを云えるようにならないと井上戯曲はできない、というところもある。難しさもあるけれど、快感はものすごい。
───「父と暮せば」(旭川市民劇場2004年6月上演)は原爆を題材としていますが、ある一人の人の心にこの戦争がどのような影響を与えたかということをクローズアップして描いています。

 井上さんは、原爆のことは絶対書きたいというのが頭の中にあった。だけれども、原爆というのはやっぱりあまりにも大きすぎる問題で、これを自分が書くにはどう書けばいいか、ということでものすごい悩んで、何年も書けなかった。現場へ取材へも行ったりして、やっぱりいちばん響いたのは、美津江(「父と暮せば」の娘役)も云うように「生きている自分が申し訳ない」「生きていることが申し訳ない」という言葉。最初聞いてもわからないよね、そんなふうに思うというのが。ところが、そう考える人が本当にたくさんいた。
 「自分は生きているんだから亡くなった人のためにも頑張って生きよう」という考えになるんじゃないというのが、不思議でしょうがない。よし、これを書こう、というのが最初の発想だったそうです。
 原爆っていうのが、ひどい悲惨なものだっていうのは、写真集もあるし詩集もあるわけだから、もっと、それによって人間の内面が「人間ってこういうふうになってしまうんだよ」「原爆だからこうなってしまったんだよ」ということを、描きたかったんだろうね。

 今度の福島の原発のことがあって、「原発事故以降、この戯曲をやる上で何か変わったことはありますか」と訊かれたこともあった。それに対しては「いえ、私たちは井上さんの書かれたものをやるわけだから、今こういう事故があったから、それを含めて、ということはしません。皆さんがそれを見て今度のことと絡めて考えてくださるのは結構ですけれども、僕らは別にこれと関係しているとは思っていません」みたいなことを云っていたんだけれども、ある日、芝居をやりながら、井上さんは原爆だけに反対したんじゃなくて「原子力というのは、人間はまだこれをどうにも扱えない、何か起こったらこれはもう誰も手が出せない、ものすごい怖いものだから、もっともっと考えなくちゃいけない」と考えてらしたんだ、と気づいた。
 その時にはもう井上さんは亡くなっていたけど、井上さんはそこまで書いてらしたんだね。原子力というのはいい加減なことではやれない、本当に手に負えなくなるという状況が今実際起こっていて、誰も手が出せないものね。
 そういう意味で、ものすごい洞察力があり、先見の明があり、本質を突いている。色んなものを見て書いてらしたんだと思います。
───出来事の表面ではなく、その本質を見抜いて書いていらしたのですね。

 「黙阿彌オペラ」という作品は、あるところで、銀行を作る。その銀行の興りというのがすごく簡単で、こんなことで銀行って出来てるの?というくらい簡単に作られていくんです。その芝居の再演のときに、ちょうど大銀行が潰れた。銀行っていうのは潰れるものなんだ!ってみんな驚いて、芝居とニュースとを両方見た人は「ああ、銀行ってこんないい加減に作っちゃってるんだ」と、すごいマッチした。
 2009年に政権交代が起こった。あのときも「兄おとうと」という作品をやってて、吉野作造という民本主義の政治学者の話で、僕たちは八月に公演をやろうとしていた。三月四月から政局が崩れて来て、どんどん解散を延ばして、ちょうど八月の上演と衆議院解散とがぶつかって、政権交代が実現した。
 「闇に咲く花」の再演のときにも、靖国問題、小泉元総理の参拝と僕らの公演が一緒のタイミングだった。

 今現在の問題じゃなくて、つねに「これは絶対大事なことだ」ということ、ずーっと通してこれは課題なんだ、ということを井上さんは書かれている。それが、こういう形で出るんだと思います。
 初演で当たるのなら、それは誰だって出来る。「今こういう問題が持ち上がっている、これを書こう」って。でもそうじゃなくて、何年も後に再演したときに芝居の内容とそっくりな事態にぶつかるっていうのは、四本も五本もそういうことがあるというのは、もうただの偶然じゃない。それはやっぱり、先見の明ってこと。普遍的なものを見据えることが出来る人だということ、それがなんといっても井上さんの天才といわれる所以だと思います。
───本日はどうもありがとうございました。

(取材:2012年6月27日旭川市民文化会館 インタビュー構成:淺井)




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